現役閣僚による史上初の沖縄視察

石垣島の海(2024年写真撮影・提供:@WAK)

夏と言えば、青い空と青い海。夏休みには、ハワイやグアム、沖縄といったリゾート地に旅行する予定の人も多いのではないでしょうか?

さて、今回取り上げるのは、沖縄に関するとある歴史資料です。今からおよそ160年前、明治政府の閣僚が相次いで沖縄を訪問し視察を行いました。これは、日本史上初の現役閣僚による沖縄視察でした。この時、沖縄ではいったい何が起きていたのでしょうか。歴史資料をもとに当時の様子を見ていきたいと思います。

山県有朋の沖縄視察

1886(明治19)年3月3日、時の内務大臣である山県有朋が沖縄に到着し、その後同11日まで沖縄を視察しました。現役閣僚が沖縄を視察するのは史上初のことです(元閣僚も無し)。なお、その翌年の1887年2月には文部大臣の森有礼が、同年11月には首相の伊藤博文と陸軍大臣の大山巌、参謀本部次長の仁礼景範(にれ・かげのり)も沖縄を視察しています。

当然、現在と違って飛行機が無いため、沖縄は気軽に行ける場所ではありませんでした。実際、山県も沖縄に向けて横浜を出発したのが1886年2月26日。途中鹿児島や奄美に立ち寄ったとはいえ、沖縄に着くまで1週間かかっています。飛行機で約2時間半ほどで着く現代と比べてとてつもなく時間がかることがよく分かると思います。当然、帰りも同じぐらい時間がかかるので、山県が東京に帰ってきたのは3月31日のことでした(帰路も山口や神戸など数カ所に立ち寄っていますが)。

また、当時はまだ沖縄まで電信が通っていなかったので、電報で連絡を取ることも出来ません(沖縄本島に電信が通ったのは、1896年9月、沖縄本島から石垣島を経由して台湾まで通ったのが1897年5月30日です)。つまり、沖縄を視察している期間、山県に緊急連絡することもほぼ不可能であったわけです。

グレート・ゲーム

では、山県はなぜわざわざ1ヶ月もの間東京を離れて沖縄を視察したのでしょうか。帰京後、山県が提出した『山県内務大臣沖縄諸島及五島・対馬巡廻復命書』(以下『復命書』と略します)を元に簡単に見ていきましょう。山県は『復命書』で次のように述べています。(同史料の3ページ)

「大臣伯爵山県有朋沖縄諸島及五島対馬等巡廻復命書進達ノ件」(公文雑纂・明治十九年・第九巻・内務省一/請求番号:纂00009100)。出典:国立公文書館デジタルアーカイブ

現在の世界の情勢を見てみると、東方(東アジア)で最も問題の多い時であるといえよう。すでに清と朝鮮との間で多少の問題が生じているし、清仏の争いがあったし、イギリスとロシアの対立もあったが、幸いにしてうまく調停が行われ、我国の沿海地方で砲弾が飛び交う事態に陥ることはなかった。しかし、そうはいっても、(今はそれぞれの国が心の)奥底にその不吉な雰囲気を隠し持つような時ではない(戦争などに向けた気持ちをひっそりと隠すような時代ではない、といったような意味)。これは事情をよく知る者が最も深く心配しているところである。このことについて考慮せず、一時の安楽をむさぼるよう望んでしまっては、いつの日か悪事が予想外の所から起きるような状況である。そうであるから、沖縄は我国の南門、対馬は我国の西門で最も重要な場所なので、この諸島の重要な港の保護・警備を放棄して捨て置くことをするべきではない。

「方今宇内ノ形勢ヲ洞察スルニ、東方最モ多事ノ日ト謂フヘシ。曩ニ清国朝鮮ニ於テ多少ノ事故ヲ生シ、又清仏ノ争戦、英露ノ葛藤アリシモ幸ニシテ能ク調停シ、我沿海地方ニ於テ砲烟弾雨ノ害ヲ被ムルニ至ラス。然リト雖モ、冥々ノ内自ラ一団ノ妖気ヲ薀蔵スルナ(ト)キニ非ス。是レ明識者ノ尤モ深計遠慮スヘキ所ナリ。此ヲ之レ省セス、唯一時ノ苟安ヲ望ムアラハ、他日ノ患害予期ノ外ニ劇発ノ勢ナリ。然レハ、沖縄ハ我南門、対馬ハ我西門ニシテ、最要衝ノ地ナレハ、此ノ諸島要港ノ保護警備、豈抛棄シテ之ヲ不問ニ付スヘケンヤ」

ここで明らかなように、山県は当時の国際情勢を鑑みた上で、沖縄や対馬等の防備を厳にすべきだと考えていました。山県が挙げていたことを具体的に見ていくと、「清と朝鮮との間で多少の問題が生じている(清国朝鮮ニ於テ多少ノ事故)」というのは、1882年に起きた壬午軍乱や、それ以前に琉球をめぐって清と外交交渉を行っていたことを指していたと思われます。また、「清仏の争い(清仏ノ争戦)」は言うまでもなく、1884~85年に起きた清仏戦争を指しています。では、「イギリスとロシアの対立(英露ノ葛藤)」とは何なのでしょうか。

実は当時、イギリスとロシアとの間でアフガニスタンをめぐる問題に端を発する世界レベルの覇権争いが行われていました。一般的にこれを「グレート・ゲーム(The Great Game)」と呼びます。現在アメリカと中国、あるいはアメリカとロシアとの間で世界の覇権争いが繰り広げられている事を想定すればよいでしょう。

イギリスによるアジア進出と巨文島事件

さて、当時はこのグレート・ゲームの影響が東アジアにまで波及することについて非常に大きな懸念がもたれていました。そして、実際にイギリスが1885年4月15日~1887年2月27日まで朝鮮の巨文島(きょぶんとう/コムンド)を占拠する巨文島事件が起きました。実は当時、アジアへ進出する国として最も恐れられていたのはロシアだったのですが、実際にはイギリスが進出してきたため、この事件は大きな驚きをもって受け止められました。

山県は1885年4月30日に井上馨に宛てた書簡(憲政資料室蔵『井上馨関係文書』所収)で、次のように述べています。

英露の葛藤は日々より困難な状況になっているように思われます。昨今どのような情勢に立ち至るのか、また我国に何か関係することが生じるのか、日夜御配慮されているとお察しいたします。出逢った際に、琉球諸島(八重山)に書記官を派遣するということをお聞かせになり、直ちに西村捨三沖縄県令に言い聞かせ、あなた(井上馨)の御指揮を受け、直ちに出張するよう申し伝えておきます。

「露英葛藤日一日より困難之趣ニ有之候処、昨今如何之形情ニ立到候や、是亦我国ニ大関係を生シ、日夜御配慮御察申候。出逢申候節球琉((ママ))諸島(八重山)え書記官派遣之儀被仰聞、直ニ西((ママ))県令(西村捨三沖縄県令)え申含、老台(井上馨)之御指揮を受、直ニ出張可致様申伝置候」

「英露の葛藤は日々より困難な状況になっているように思われます(露英葛藤日一日より困難之趣ニ有之候)」というのは、恐らくすでに起きていた巨文島事件のことを指していると思われ、ここから巨文島事件をきっかけに山県が沖縄を意識するようになった事が窺えます。

また、以下の資料によると、外務省でもこの書簡と同じ日に、英露関係の緊迫化を受け、軍艦による南西諸島巡視や管理の派遣が求められていました。

「英露両国ノ関係アルニ依リ沖縄県下ニ船舶ヲ廻漕セシメンコトヲ稟定ス」(公文類聚・第九編・明治十八年・第四巻・文書・出版・記録志表・印璽、外交・条約~雑載/請求番号:類00229100)。出典:国立公文書館デジタルアーカイブ

英露の関係は追々切迫する状況に向かうような情勢であるということは、しばしば上申しており、既に軍艦を派遣して南西諸島を巡視すべきという旨も伝えられています。それなのに、沖縄の諸島は地方官においてこの際最も注意しており、ロシアやイギリスの軍艦も時々立ち寄るかも予測できないようなことが自ずとあるようなときは、時々当省(外務省)へ報告することは緊要のことになります。それなのに、沖縄は船舶の交通の便が極めて乏しく、それぞれの島には現地の島民しか居らず、万が一の時があった場合は不都合な状況であるため、官員を派遣することが必要であるので、至急、相当の船舶・官吏を雇い、同県(沖縄県)に廻すようにしたい。

「英露両国之関係追々切迫之形勢ニ向ヒ候趣ハ過日来屡々上申ニ及ヒ、既ニ軍艦ヲ派遣シ我南西諸島巡視スベキ旨ヲモ達セラレ候。然ルニ沖縄県下諸島之儀ハ地方官ニ於而此際尤モ注意シ、露英軍艦モ追々立寄ベキ哉モ難計自然有之候節ハ、時々当省ヘ報告セシメ候ハ緊要之儀ニ候。然ルニ、沖縄県下之儀ハ舩舶交通之便宜極メテ乏シク、各嶋ニハ島民而已ニテ、万一ノ事有之候節ハ不都合ニ付、官員ヲ派遣致シ候事必要ニ有之候間、至急ニ相当之舩舶官雇相成、同県ニ相廻候様致度」


なお、当時の沖縄県令西村捨三もまた次のような要望を出しています。

「沖縄県令建議内閣諸公ノ内該県下巡視及ヒ電信線架設等ヲ希望スルノ議」(公文別録・上書建言録・明治十一年~明治十八年・第三巻・明治十七年~明治十八年/請求番号:別00056100)。出典:国立公文書館デジタルアーカイブ

旧琉球諸島は、ましてや東アジアで問題の多い昨今、殊に清との関係が未だ絶えていない地方なので、何卒此の際、内閣諸侯の中から(誰か)一度沖縄を巡廻して、地理や風俗等を詳しく視察し、これからの政策を一定させてほしい。

「旧琉球群島、況ンヤ東洋多事ノ今日、殊ニ清国トノ関係不相絶地方ニ付、何卒此際、内閣諸公ノ御内ニテ壱度御巡回、地理風俗等親シク御視察、前途ノ御方策一定」

とあり、やはり東アジア情勢を鑑みての視察の要請と言えるでしょう。

 このように、1885~86年は東アジアの国際情勢が非常に危険な状態にあると、当時の政府の人たちは考えていました。特にその中で最も大きな影響を与えていたのは巨文島事件であったと考えられます。実際、これまで見たように、巨文島事件以後、沖縄への関心が高まり、官僚や閣僚による視察が求められたわけです。そしてその結果、史上初の現役閣僚による沖縄視察が行われたと言えるのです。

【参考文献】
『沖縄県史』第一巻、通史、沖縄県教育委員会、1976年。
『沖縄県史』、各論編五、近代、沖縄県教育委員会、2011年。
我部政男「琉球から沖縄へ」(『日本通史』第一六巻、岩波書店、1994年)。
近藤健一郎『近代沖縄における教育と国民統合』北海道出版会、2006年。
高橋秀直『日清戦争への道』東京創元社、1995年。
西里喜行『清末中琉日関係史の研究』京都大学学術出版会、2005年。
三谷博他編『大人のための近現代史 19世紀編』東京大学出版会、2009年。

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