連載「西太后の実像」①/西太后像を一変させる日本所蔵史料

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西太后は悪女?

「中国三大悪女」の一人に数えられる「西太后(せいたいこう)」。皆さんの中にも、「()(だい)の悪女」や「歴史上の悪女」と聞いて、西太后を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。

しかし、歴史研究の成果によりそうした西太后のイメージは、必ずしも実像を反映したものではないことが明らかになってきています。

西太后が悪女とされてきた理由

西太后(1835-1908)は1908年に亡くなるまでのおよそ50年、(しん)朝の最高権力者として君臨しました(詳しくは【参考文献】①「西太后」を参照してください)。西太后が亡くなって間もない1912年、中国最後の王朝である清朝は滅亡します。

270年以上続いた清朝が滅亡を迎えた要因として、改革が遅々(ちち)として進まず近代化に(おく)れをとったことが挙げられます。その滅亡間際の数十年間(けん)(せい)を振るっていた西太后こそが、改革を阻み、清朝の衰退を招いた張本人であると考えられてきました。

西太后が悪女たるゆえんは、権力をほしいままにし、私利私欲を追求し、王朝を滅亡に導いた(がん)(めい)な独裁者という評価に基づいています。また、女性に権力を握らせるべきではないというような男性優位社会における固定観念も、西太后に対するそのような評価を支えてきたことも否めません。

そして、そうした評価は「()(じゅつ)政変(せいへん)」という事件により、揺るぎなきものとなっています。

戊戌変法と戊戌政変

1898年、西太后の甥っ子、(よわい)28歳の若き皇帝(こう)(しょ)(てい)(1875-1908)は改革を決断します。光緒帝による改革は、後年「()(じゅつ)変法(へんぽう)」と呼ばれるようになります(「変法」とは政治制度改革を意味します)。そう呼ばれるようになったのは、光緒帝が改革実施を宣言した1898年が「(つちのえ)(いぬ)」の年(近年では2018年が「戊戌」の年でした)であったのみならず、この戊戌の年のうちに改革が終わりを迎えてしまったからです。

改革は開始間もなく、光緒帝の幼少期からの教育係であり、数少ない改革推進派の高官であった(おう)(どう)()(1830-1904)が()(めん)、追放されるなど、逆風が吹き荒れました。そしてその黒幕は西太后であると考えられてきました。

改革開始から100日あまり後、改革は白紙に戻され、光緒帝は(ゆう)(へい)されてしまいます。この事件を「戊戌政変」と呼びます。

青年皇帝が挑んだ改革を握り潰したのみならず、時の皇帝を幽閉したのです。この事件が、西太后=悪女という評価を決定的なものにしたと言っても()(ごん)ではないでしょう。そして政変は、改革を(だん)(あつ)する西太后を、改革派が幽閉(暗殺)しようとする計画が明るみに出たことにより起きたものと考えられてきました。

西太后像を一変させた日本所蔵史料

そうした改革の弾圧者としてのイメージとは異なる西太后の姿が語られた史料が、日本の外務省外交史料館に所蔵されています。駐清日本公使が、清朝高官に翁同龢追放の内情を問い合わせ、外務大臣に報告した文書です。

「5 明治31年4月19日から明治31年9月24日」(所蔵機関:外務省外交史料館/請求番号: 1.6.1.4-2)。出典:アジア歴史資料センター (Ref. B03050007100)。

ここでは、清朝高官の話として、翁同龢と光緒帝の関係が悪化していたこと、西太后は元より改革を好む人物であること、光緒帝が改革を決断したことで西太后との関係が親密になっていることなどが報告されています。

この文書が発見されるまで、翁同龢と光緒帝の(かく)(しつ)や、西太后が改革の開始を喜んでいるという証言や史料が全く存在しなかったわけではありません。しかし、そうした証言は、「西太后は改革を弾圧した」という固定観念から、重要視されてはきませんでした。

しかし、日本に所蔵されていたこの史料を(かんが)みるならば、従来重要視されていなかった証言の再検討が必要になります。そしてそれを試みた結果、点と点が繋がるかのように、これまでとは異なる西太后像が浮かび上がってきたのです。

また、西太后が改革に反対していなかったとするならば、従来知られている戊戌政変の顛末についても疑問が生じます。西太后が改革を弾圧していたゆえ、改革派は西太后の幽閉を計画し、それが西太后に漏れ伝わり政変が起きた、というストーリーのつじつまが合わなくなるのです。

では、戊戌政変の真相、そして西太后の実像はどのようなものだったのでしょうか。

西太后の政治手法

独裁者のイメージのある西太后ですが、実際の政治手法は調整型でした。独断独行で政策を決定することはなく、政府中枢の官僚や有力な地方官僚らに充分に議論を戦わせ、その時々の実力者を見定め、適任者に権限を与え、最終的な決裁を下していました。

逆に言えば、改革の訴えに耳を傾け、その必要性を認識しながらも、反対意見も(ないがし)ろにはできなかったのです。一方光緒帝は、反対の声を押しのけて強引に改革を断行しようとしました。政策意見の相違から、翁同龢を追放したのも光緒帝でした(詳しくは【参考文献】②「光緒帝」を参照してください)。

光緒帝が皇帝に即位したのはまだ4歳の頃でしたので、会議には、前々皇帝の妻であり前皇帝の母であり光緒帝の伯母である西太后が同席し、光緒帝に代わり政策判断を下したり、光緒帝に助言を与えたりしていました。ただし、光緒帝が19歳になると、西太后は会議には出席しなくなり、隠居生活を始めます。 それ以降も、光緒帝の政策決定は西太后に(ちく)(いち)報告されていました。重大な決定を下す前には、光緒帝が西太后を訪れ、お伺いを立てることもありました。しかし、西太后が光緒帝の決定に(よこ)(やり)を入れたり、決定を(くつがえ)したり、自らを訪れた光緒帝の意向を否定するようなことはありませんでした。光緒帝が改革実施を決断した際も、実際に改革の指示が下され始めても、それは同様でした。

戊戌政変の真相

しかし、そんな西太后が猛烈に反対した改革案が唯一ありました。そして、西太后はその改革が動き出すことを早急に食い止めようとしました。改革案は、もしも光緒帝が独断で決定を下したならば取り返しがつかない、清朝政府だけでは反故(ほご)にすることができない、つまり、外国政府が関わるものだったのです(詳しくは【参考文献】①「西太后」を参照してください)。

西太后は、その改革案の進展を防ぐべく、約10年ぶりに会議に同席すると宣言しました。そして、この改革案を提出した者を罷免し、外国政府との交渉役を担おうとしていた(こう)(ゆう)()(1858-1927)の逮捕命令を発しました。これが「戊戌政変」です。

西太后は、自身の幽閉計画を知り政変を起こしたわけではありませんし、改革そのものに反対していたわけでもありません。政変は改革を白紙に戻すためのものではないのです。しかし、この2日後、改革派による自身の幽閉計画の存在が西太后に知らされます。改革が白紙に戻されるのは、この翌日のことです。そして、よく知られているように、政変が(せい)(さん)なものとなっていくのも、これ以降のことです。

あわよくば自らを亡き者にしようとした計画の存在を知った西太后の怒りと恐怖が相当のものだったことは、想像に(かた)くありません。まずは、幽閉計画の(しゅ)(ぼう)者と目される改革派の数名が逮捕処刑されます。それでも、計画を事前に知りながらも自らに知らせなかった者がいるかもしれない、再び自らの暗殺計画が浮上するかもしれないと、西太后の疑念は膨らんでいったのでしょう。光緒帝とその側室の世話係たちも処刑されてしまいます。疑いの目は光緒帝にも向けられたのか、政変から半月後、光緒帝は幽閉されてしまいます。

(ちなみに光緒帝の「幽閉」は死ぬまで牢屋に閉じ込められていたようなイメージを持たれていますが、光緒帝はこの後も西太后同席のもとで政務には携わり続けていますし、外国人と会見したりもしています。「(なん)(きん)」程度が妥当でしょう。)

では、改革の弾圧者としての西太后像はどこから生じたのでしょうか。それについては、他記事でお話ししていくこととします。

インターネット公開されている一次史料の可能性

本記事では、日本所蔵史料が、日本だけではなく海外の歴史像をも大きく塗り替えるきっかけとなり得る一例を紹介しました。

外務省外交史料館の公開史料をはじめとした、現在インターネット上で誰でも閲覧することができる史料は膨大な量があり、歴史研究者が隅から隅まで目を通しているとは限りません。思わぬ大発見があるかもしれませんね。

【参考文献】
①宮古文尋「西太后——変革を厭わなかった自由奔放な未亡人」(上田信編『悪の歴史(東アジア編・下+南・東南アジア編)』清水書院、2018年)
②宮古文尋「光緒帝——師を捨てすべてを失った激情家」(同上)

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