連載「西太后の実像」②/日本政府に伝えられた戊戌政変の情報

出典:イラストAC

政変の「真相」とは

前の記事では、()(じゅつ)政変(1898年)は西(せい)(たい)(こう)(1835-1908)が改革を阻止するべく起こしたわけでもなく、西太后の(ゆう)(へい)計画が明るみに出たゆえに起きたわけでもないことをお話ししました。

歴史研究によりこれらが明らかになってきたのは、ここ2~30年のことです。つまり、100年ほどの間、真相は誰にも分からなかった、或いは誤った認識をされてきたのです。

真相を知っているのは、政変を起こした張本人である西太后のみです。しかし、西太后は政変を起こした理由をはっきりと述べることなくこの世を去りました。また、仮に述べていたとしてもそれが真実であるとは限りません。何かを隠すために真相とは異なることを述べているかもしれませんし、或いは本人でもよく分からないなんてことだってあるでしょう。そして、現在の研究成果を基に語られる「真相」も、数年後にまた改められることももちろんあり得ます。

(前置きが長くなりましたが)ですので、当然ながら政変は何故起きたのか、ということは政変直後から最大の関心事でした。中国に限らず日本の新聞紙上にも様々な憶測や情報が飛び交いましたし、日本政府にも駐清の外交官らから様々な報告がされています。

この記事では、日本にどの時点でどこまでの情報がもたらされていたのかを見ていきます。

政変の第一報

1898年9月21日に政変が起こりました。翌22日、駐(しん)の外交官からの二通の電文により、以下の情報が日本政府にもたらされています。

・清朝の改革に対する重大な反動が起き、皇太后陛下(西太后)が再び政務にあたると宣言された。西太后は皇帝陛下(光緒帝)と共同で政務にあたる。
・西太后に対し、過激な改革派を鎮圧するよう要請があった。
・光緒帝はここ数か月間、改革運動の中心であったが、西太后と共同で政務にあたるとなれば、その権勢けんせいは制限されることになるだろう。
・康有為は逮捕される模様。
※「康有為こうゆうい(1858-1927)」は、光緒帝が改革を決断する前、在野で繰り広げられていた改革運動の中心的人物であり、改革開始後も改革案を光緒帝に提出していました。

西太后が(こう)(しょ)(てい)(1875-1908)と共に再び政務にあたるということは、何かしら光緒帝の()(せい)に不満があったと推測される。光緒帝は改革運動の中心であったし、改革派鎮圧の要請が西太后にあったようだから、その不満とは改革に向けられたものだろう。

以上の判断から、政変は改革に対する反動だと考えられたようです。

しかし、前の記事でもお話ししたように、実際には政変は改革を阻止するべく起きたわけではありません。23日の夜、『東京朝日新聞』の北京駐在記者は、「形勢は一時(ちん)(せい)した様子で、政変の打撃が及ぶのは康有為ら少数に過ぎないだろう。西太后復帰後一つ目のお言葉が早く見たいと(ちまた)では持ち切りである」という(しゅ)()の記事を(しる)しています(掲載は10月10日)。政変は当初、(ひょう)()抜けとも言える状況だったのです。

政変を凄惨なものとした「重大なる陰謀」

しかし23日には、西太后に自身の幽閉計画が伝えられていました。翌24日の日本政府への電文には、「改革党は逮捕、罷免されるとの話。皇帝の安否は不明」と、新たな報告があります。

政変は、激しさを増していきそうな雲行きとなってきていました。

26日、ちょうど北京を訪れていた伊藤博文は家族に手紙を(したた)めています(この時伊藤博文が北京にいたことと政変との関連性については、【参考文献】①「西太后」を参照してください)。伊藤は、何が本当のことなのかよく分からないとしながら、光緒帝の改革が急進的に過ぎたらしい、さらには西太后を廃する企てを起こした者がいるという説もある、と(つづ)っています。

29日には、改革派の逮捕者6名が北京の市中で公開処刑されます。同日中には、北京駐在の日本公使よりそのことが報告されています。

当初の様子と異なり、政変が凄惨(せいさん)なものとなっていくに従い、この政変は単に改革を阻止するためだけに起きたものではなさそうだと、改めて政変(ぼっ)(ぱつ)の理由が大きな疑問として浮上します。

10月1日には、処刑された6名の罪名が「(まん)(しゅう)政府(朝廷)に対し重大なる陰謀を企てた」であったことが報告されました。さらに4日、以下の情報が報告されています。

・処刑された6名はいずれも康有為一派である。
・これまでの改革は些細なものではあるが、康有為らは大改革を決心していたようだ。
・おそらく、協議に加わっていた袁世凱が、西太后或いは自らの上官に秘密を洩らした。
・光緒帝及び康有為一派が何を企図していたかは定かではないが、満洲派(朝廷)の利益を脅かすものと考えられたことに疑いはない。

まだ「重大なる陰謀」ははっきりしていません。ただ、それを漏らしたのは(えん)(せい)(がい)(1859-1916)であるようだと報告されています。袁世凱は、当時清朝において最新の軍隊を率いていた人物です。

西太后幽閉計画の報道

次第に北京から逃れた改革派より、政変と「重大なる陰謀」についての証言が語られるようになってきます。10月1日、上海滞在中だった日本の詩人は、「康有為門下生」の話を基に「袁世凱のうら切」と題した記事を認めています(『九州日報』10月7日掲載)。その内容は以下の通りです。

・一部の保守派が武力行使により光緒帝の政権を奪い、改革派を(せん)(めつ)し、西太后の(せん)(けん)(はか)ったゆえ、康有為は()(せん)を制して西太后を幽閉しようとした。康有為は軍隊を持たないゆえ袁世凱に協力を求めると、袁世凱は一度(じゅ)(だく)しておきながら裏切った。
・「康有為門下生」は、袁世凱は信頼できないと(いさ)めたが、康有為は聞き入れることなく、今回の事態を招いた。

ここで、西太后の幽閉計画の存在、そしてその計画は康有為の立案によること、そして康有為は周囲の反対を押し切ってこの計画を進めたことが証言されました。

畢永年による幽閉計画内幕の暴露

こう証言した「康有為門下生」とは、(ひつ)永年(えいねん)(1869-1902)という人物だったと思われます。畢永年はこの日(10月1日)、上海を発って日本に向かいました。8日に横浜に到着すると、「譚嗣同たんしどう(けつ)(べつ)書」を手に新聞社を回ります。

畢永年の友人である譚嗣同(1865-1898)は、康有為門下生の中でも特に康有為に(しん)(すい)していました。西太后幽閉計画への加担要請を、袁世凱に(じか)(だん)(ぱん)する役割を担ったのも譚嗣同です。政変が起きると、畢永年同様に改革派の多くは北京を逃れます。北京に滞在していた日本人は、譚嗣同にも逃亡を強く勧めましたが、譚嗣同は光緒帝を救出するべく北京に残り、結果、逮捕処刑されることとなりました。

「譚嗣同の訣別書」は、北京に残ることを決断した譚嗣同が、畢永年に送ったとする書です。実際に譚嗣同が記したものなのかどうか、その(しん)()のほどは定かではありません。ただし、そこには譚嗣同の悲壮な覚悟と共に、袁世凱は絶対に信用ならないと譚嗣同が康有為に問い(ただ)したこと、袁世凱の協力を得られないと判明した後に康有為が譚嗣同の言うとおりにするべきだったと後悔を述べていたことが記されていました(全文訳は【参考文献②】「譚嗣同」を参照してください)。

つまり、康有為が周囲の忠言を聞き入れてさえいれば、少なくとも譚嗣同ら6名(処刑者には康有為の弟も含まれています)が処刑されることはなかったのです。また、光緒帝が幽閉されることもなかったでしょうし、改革が白紙に戻されることもなかったかもしれません。

大きな判断ミスを犯してしまった康有為は、この時どうしていたのでしょうか。次の記事に続きます。

※史料出典全て
「1 1898〔明治31〕年9月8日から1898〔明治31〕年10月10日」(所蔵機関:外務省外交史料館/請求番号: 1.6.1.4-2-2)。出典:アジア歴史資料センター (Ref. B03050090500)。

【参考文献】
①宮古文尋「西太后——変革を厭わなかった自由奔放な未亡人」(上田信編『悪の歴史(東アジア編・下+南・東南アジア編)』清水書院、2018年)
②宮古文尋「譚嗣同——悲劇的結末を招いた俠気と狂気」(上田信編『俠の歴史(東アジア編)』清水書院、2020年)

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