連載「西太后の実像」③/光緒帝からの手紙を改竄した康有為

康有為の逮捕命令と逃亡

西(せい)(たい)(こう)(1835-1908)の幽閉(ゆうへい)画策(かくさく)した当事者の(こう)(ゆう)()(1858-1927)は、政変後はどうしていたのでしょう。

(たん)()(どう)(1865-1898)が(えん)(せい)(がい)(1859-1916)に西太后幽閉計画への協力を要請したのは9月18日です。袁世凱からは(あい)(まい)な返答しか得られませんでした。翌々日の20日、康有為は北京を離れます。翌21日には政変が起き、康有為の逮捕命令が下されました。

ここでの逮捕命令は、政変を招くに至った改革案の進展を食い止めるのが目的でしょう(連載記事①を参照してください)。西太后に自身の幽閉計画が伝えられたのは23日ですから、それとは関係ありません。

ただし、いずれにせよ国内指名手配となった以上、それを逃れるには外国勢力を頼りとするしかありません。また、いずれ幽閉計画が漏れ伝わることは、康有為も当然覚悟していたでしょう。

政策方針の違いゆえの指名手配と、時の皇太后の殺害をも辞さないテロ計画の首謀者ゆえの指名手配では、全く話が違います。現代で例えてみれば、中国で民主化運動を主導したゆえの指名手配犯と、(しゅう)(きん)(ぺい)を暗殺しようとしたゆえの指名手配犯がいたとして、後者を他国が保護することが難しいことはお分かりになるかと思います。

康有為には、自らの保護を海外勢力に求める必要、さらに仮に自身がテロ計画の首謀者であろうとも、海外勢力には自らを保護する必要性があるのだと、訴えかける必要がありました。

康有為が生み出した「西太后=親露派」の虚像

政変が起きて3日後の24日、康有為は上海に到着します。康有為はまずはイギリスの外交官らに、政変は守旧派しゅきゅうは(改革反対派)が西太后に促したものだと説明すると同時に、西太后ら守旧派はロシアと結びついている、一方の光緒帝は親英だなどと(ふい)(ちょう)して回ります。

日本の外務省外交史料館には、康有為と会談した香港駐在の外交官からの報告が残っています。ここでは、この度の政変は、改革派の光緒帝ら親日英派と守旧派の西太后ら親露派の衝突であり、日英合同での後援がなければ、(しん)朝はロシアの(かい)(らい)とされ独立は保てない等、康有為が述べたことが報告されています。

「1 1898〔明治31〕年9月23日から明治31年10月21日」(所蔵機関:外務省外交史料館/請求番号: 1.6.1.4-2-2)。出典:アジア歴史資料センター (Ref. B03050092100)。

これらの康有為の話は根も葉もないものです。イギリスの外交官には皇帝と改革派は「親英」、日本の外交官には皇帝と改革派は「親日英」としていることからも、この話が作り話であったことが窺えます。

康有為は自らに対する逮捕命令を、自らが親英日派であるがゆえに親露派の西太后が発したものとし、極東地域においてロシアと対抗する英日政府による自らの保護を期待したのです。政変を清朝政府内での政策対立のみが招いたものではなく、ロシアが暗躍あんやくした結果起きた国際問題なのだと英日政府に説明することで、康有為は自らの身の安全を図ろうとしました。

政変を、「改革派=親英日派=光緒帝」と「守旧派=親露派=西太后」の争いの結果とするこの説明は、日本に亡命した康有為の弟子によっても(けん)(でん)されます。諸外国政府がこの話を()()みにしたわけではありませんが、後の歴史家は、政変の背景に親英日派と親露派の対立が存在したという康有為らの説明を疑問視することなく、一定程度受け入れてきました。

光緒帝からの密詔とその改竄

さて、英日政府の保護により自らの身の安全を確保せんとする康有為の(もく)()()は、他の外務省外交史料館所蔵史料からも窺い知ることができます。

北京を離れて上海に向かった康有為は、光緒帝より出京を促された私信((みっ)(しょう))を(たずさ)えていました。私信は17日付のものです。光緒帝は政変が起きるより前、改革の先行きに不安を覚え、康有為に離京を命じていたのです。

私信は、イギリスや日本にその「写しの写し」が残されています。すなわち康有為が光緒帝からの私信を書き写し、それを各国外交官がさらに書き写したものです。外務省外交史料館にも「写しの写し」が存在します。

右は10月に康有為名義で北京の日本公使館に送られてきた政変の内幕を語った封書の写し、左は同じく10月に上海(りょう)()館に送られてきた封書の写しです。いずれの封書でも、光緒帝からの私信が引用されていますので、光緒帝の私信の「写しの写し」が二種、外務省外交史料館に所蔵されていることになります。

「5 湖広総督張之洞ノ近状并ニ其政変等ニ関スル意見報告 3/乙号」(所蔵機関:外務省外交史料館/請求番号: 1.6.1.4-2-2)。出典:アジア歴史資料センター (Ref.B03050091100)。

「4 明治31年11月12日から明治31年12月26日」(所蔵機関:外務省外交史料館/請求番号: 1.6.1.4-2-2)。出典:アジア歴史資料センター (Ref. B03050090800)。

左は両者の文言が異なる部分を拡大したものです。

右側は最後の4文字が「萬勿遲延」、左側は「不可遲延」となっていますが、たいして意味は変わらないので、さして問題ではありません。いずれも「迅速に(北京の)外に出よ、遅れてはならない」という意味となります。

問題となるのは、左側において「出外」の後に「國求救」が書き加えられていることです。これにより光緒帝の指示は、「(北京の)外に出よ」から「外国に出て救援を求めよ」に意味が変わってしまいます。

康有為自身が残した控えには「汝可迅速出外不可遲延」とあり、これが元の文言だったのでしょう。康有為は「出外」の後ろに「國求救」を書き加え、その意味を全く違うものに(かい)(ざん)したのです。

海外逃亡を光緒帝の指示と嘘偽った康有為

康有為は光緒帝に(たまわ)った私信を改竄し、光緒帝自らが外国の救援を求めていたとすることで、政変が親英日派と親露派の対立が招いた国際問題であるという話に、より説得力をもたせようとしたのでしょう。海外政府による自身の保護を、より確実なものとしたかったのです。

ただ、日本にも二種の文面が残されているように、当初はこの改竄は行われていませんでした。康有為の弟や弟子、改革派6名が市中で公開処刑されるなど政変が激しさを増してきたことで、康有為が追い詰められた結果の改竄と見ることもできます。ただし、改竄の目的は自らの身の安全を図る他にもあったと思われます。

この後、康有為は日本に逃れます。康有為には、自らの国外逃亡を光緒帝の意向によるものとしたい思惑がありました。それゆえ、当初は手を加えていなかった私信の文面に改竄を施し、光緒帝は自らに「“外国に出て”救援を求めよ」と指示したことにしたのです。つまり、逮捕を逃れて自身の身の安全を保証するのみならず、自身の逃亡に正当性を持たせたかったのです。

しかし、康有為の弟子をはじめとした改革派には、北京の日本公使館に駆け込む等して逃亡していた者もいます。なぜ康有為は、わざわざ私信に改竄を施してまで、自身の国外逃亡に(たい)()(めい)(ぶん)を掲げる必要があったのでしょうか。

自らの保身に専心した康有為

西太后幽閉計画が明るみに出たならば、光緒帝の関与が疑われること、疑われたならば光緒帝の身に危険が及ぶことは容易に想像できます。それゆえ、譚嗣同は逃亡を(すす)められながらも北京に残り、光緒帝の救出を画策し、逮捕処刑されるに至ったのです。

一方、この事態を招いた張本人である康有為はおめおめと国外逃亡しようとしていました。よって康有為は、光緒帝を(きゅう)()に追い込むこととなった西太后幽閉計画の発案者が自らであること、そしてそれを周囲の反対を押し切ってまで企てたことを知られるわけにはいきませんでした。しかし、そうはいかずに計画の存在が知られることとなってしまった時には、今度はその首謀者たる自身の国外逃亡には大義名分が必要だと考えました。

それゆえ康有為は、自身の海外逃亡は光緒帝の指示によるとしたのでしょう。康有為は、自らの手で光緒帝を救出するべく国内に残りたいのはやまやまだけれども、「外国に出て救援を求めよ」という光緒帝の指示を忠実に守るべく、やむをえず日本に亡命するのだというシナリオを考え出したのです。

実際の康有為の関心は自身の行く末のみにあり、光緒帝の身を案じることはありませんでした。そのことを何より(けん)(ちょ)に表しているのが、光緒帝からの私信の改竄という行為そのものです。

光緒帝は、康有為が画策した西太后幽閉計画への関与を疑われ、とらわれの身にあるのです。そのような中、政変が起こる以前、つまり幽閉計画が進められていた最中(さなか)に、「外国に出て救援を求めよ」と光緒帝が康有為に指示していたとなればどうでしょうか。幽閉計画への光緒帝の関与はますます疑われる、さらにその計画に外国勢力を引き入れようとまでしていた疑惑も浮上しかねません。

康有為が光緒帝の私信に書き加えた「國求救」の三文字が、光緒帝をさらに(きゅう)()に追い込むのは火を見るより明らかです。自らの保身に専心していた康有為は、そんなことにすら考え及ぶことはありませんでした。

康有為は、自らの国外逃亡を正当化するべく、光緒帝から(たまわ)った私信の改竄の他にも、様々な策を講じました。次の記事に続きます。

【参考文献】
・宮古文尋「西太后——変革を厭わなかった自由奔放な未亡人」(上田信編『悪の歴史(東アジア編・下+南・東南アジア編)』清水書院、2018年)
・宮古文尋「康有為——名誉欲と権力欲にとりつかれた野心家」(同上)

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