ロシア兵のための高野山の供養塔

高野山・奥の院入口(2022年11月筆者撮影)

2023年4月から新型コロナウィルスに関する水際対策が緩和され、日本を訪れる外国人が増えてきました。定番の観光スポットに行くと、日本人よりも外国人の方が多いなんてこともありますね。和歌山県にあるユネスコ世界文化遺産・高野山もそんな観光地の一つです。とくにアメリカやヨーロッパから訪れる人びとが多く、みな寺院が運営する宿坊に泊まっています。僧侶の方々もまた外国人観光客に対して、一生懸命英語で説明している姿を見かけます。

さて、真言密教の聖地である高野山は、今から1200年前に弘法大師空海によって開創された地域で、歴史ある117もの寺院が集まっています。見どころは奥の院です。杉林の中に苔むした無数の慰霊碑や供養塔、墓などが立ち並んでおり、その光景は神秘的で圧巻です。それらには武田信玄や織田信長など戦国武将の名前が刻まれていて、歴史好きには見ているだけでワクワクします。

こうしてみると実に日本的な場所ですが、外国とのかかわりがあったことをご存じでしょうか? 今回は高野山と外国との関係――日露戦争で亡くなったロシア兵のための供養塔について、歴史資料をもとに見ていきたいと思います。

日露戦争と騒擾事件

1904(明治37)年2月、ヨーロッパ諸国によるアジアの植民地化が進む中、朝鮮半島における権益などをめぐり日露戦争が開始されました。当初ロシアの勝利で終わると思われたこの戦争で、アジアの小国日本がロシアのバルチック艦隊を壊滅させたことは、世界に衝撃を与えました。ヨーロッパ諸国では日本への脅威が高まり「黄禍論」(黄色人種が力を蓄えて白色人種の脅威となる議論)が唱えられる一方、アジア諸国では日本のように自分たちも勝てるはずだという希望が生まれ、植民地支配から逃れるための闘争が始められました。

他方、日本もまた余力が残っておらず、戦争を長引かせるわけにはいきませんでした。そのため、1905年9月に結ばれたポーツマス条約では、ロシアが朝鮮半島の支配を承認する一方で賠償金の支払いを拒否したものの、日本は受け入れざるを得ませんでした。その結果、講和条約の内容に不満を抱いた東京の人びとが日比谷公園に集結して暴徒化し、内務大臣の官邸などを襲撃・放火する日比谷焼討事件が起こりました。

なお、東京の日比谷焼討事件はよく知られていますが、実は東京だけではなく他の都市でも暴動が起こっていました。以下の資料には横浜の騒擾事件について書かれています。9月13日に神奈川県知事の周布公平が外務大臣に宛てたもので、内容の一部を要約すると以下の通りです。

「東京横浜騒擾一件」(所蔵機関:外務省外交史料館/請求番号:5.3.1.0-16)。出典:アジア歴史資料センター(Ref.B08090142500)。

9月12日の午後7時から、横浜市羽衣町の劇場・羽衣座で講和条約問題に関する演説会を開催し、磯部四郎や奥野市次郎ほか弁士6名が登壇する予定であった。定刻前にすでに3000人が集まっており、入場できない者も450人以上いた。やや殺気立ってはいたが、弁士が登壇しているうちはまだ不穏な空気にはならなかった。ところが、8時30分になり4名が終了したところで、会主が他の弁士が出席していないので散会する旨を告げた。すると聴衆は憤慨し、入場料を返せだとか詐欺泥棒だとか怒号が飛び交い、ますます不穏な空気になった。劇場内外にいた人々が呼応して大騒ぎとなり、警察官の制止を無視したばかりか負傷させ、退散したと思ったら今度は警察署や派出所を襲撃して放火した。そしてますます狂暴化し、旧居留地に侵入してフランスやアメリカの領事館などを襲撃した。私(周布知事)は地方官会議で上京中だったが、知らせを受けて第一師団長に歩兵二個中隊の出兵を求めた。イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、ロシア、清の6領事館と教会堂などの枢要な場所全てに哨兵を配置し厳重警戒中である。

常喜院の大円による供養塔

このように、都市部で騒擾事件が起きました。それから3年後の1908年12月11日、遠く離れた高野山にある常喜院の住職・大円から、東京のロシア大使宛に伺書が提出されました。ロシア大使は外務省本省に問い合わせ、外務省から和歌山県知事宛に照会がありました。

伺書の内容を要約すると「高野山では、空海の誓願に基づき、古来より貴賤の別なく供養塔を建立し、人びとの死後の冥福を願ってきた。そこで私も1904年の日露戦争によって亡くなった日本兵とロシア兵の英霊を合祀したいので、4メートルほどの銅製如意宝珠塔を建立したい。碑文にロシアの陸軍と海軍の軍人の戦死者と病没者の人数を刻みたいので、人数を教えてほしい」というものでした。

大円が碑文に刻もうとした文章は以下の資料に残されています。

「高野山ニ日露両国戦病死者ニ対スル如意宝珠塔建立方ニ関シ同山常喜院住職伺出一件」(所蔵機関:外務省外交史料館/請求番号:5.2.9.5)。出典:アジア歴史資料センター(Ref. B07090962400)。

1904年2月10日、宣戦の詔勅が発布されると、我が軍は奮進し、堅牢な要塞を貫き、巨大な艦隊を打ち砕いて、天地は驚きおののいた。陸でも海でも大勝し、1905年10月16日、講和の詔勅が発布され、ここに国家を富岳のように安定させた。これは、もっぱら天子の優れた徳のおかげであるとはいえ、その身を犠牲にした忠誠に富んだ勇敢な将校と兵士がいなかったら、どうして勝利に至っただろうか。この戦争で戦死し病没した者は、我が陸軍は約91200人、海軍は2009人、傷病死者は860人(ロシア側の死者は何人?)。私、大円は国力が盛んな時代に生まれ、平和を享受できることを喜ぶと共に、死体の山が積み上げられ血の河が流れる惨状を思うと、忠義を尽くして亡くなった日本とロシアの人びとの魂を慰めることを強く願うようになった。このとき大阪の人で小野清吉氏が賛同して巨額の寄付金を投じてくれたので、この荘厳な宝塔を建立したのである。

「明治三十七年二月十日、宜戦ノ詔勅煥発セラルヽヤ、我軍奮進、堅壘ヲ抜キ、巨艦ヲ摧キ、天地震驚。陸海斉ク大捷ヲ奏シ、三十八年十月十六日、講和ノ詔勅煥発セラレ、茲ニ国家ニ富嶽ノ安キニ置ケリ。是レ一ニ聖上ノ御感徳ニ因ルト雖モ、一身ヲ犠牲ニ供セン忠勇ノ将士無クセバ、烏ソ此ニ至ラン。斯ノ役ヤ戦死病没者、我陸軍約九一二〇〇人、海軍戦死者二〇〇九人、傷病死者八六〇人、露国何々人ノ。貧道大円盛世ニ生レ、昇平ノ楽ヲ享クルヲ歓フト俱ニ、其屍山血河ノ惨状ヲ追想シテ、自他ノ忠魂ヲ慰メンコトヲ祈願スルヤ切ナリキ。茲ニ大阪ノ人小野清吉氏之ヲ賛成シ巨額浄財ヲ投シテ此荘厳ナル宝塔ヲ建立セラレタリ。」

現在、常喜院は変わらず運営されていますが、残念ながら宝珠塔は現存していないようです。

日露戦争の影響

日露戦争で日本がロシアに勝利した事実は、当時の日本人に日本が一等国になったという優越感を与えました。そうした記憶は現在の日本人にも受け継がれており、児玉源太郎や東郷平八郎など日露戦争で活躍した軍人たちはみな英雄視され、輝かしい功績として語られます。他方、この戦争では日本もロシアも多くの犠牲を払いました。また、ヨーロッパ諸国の支配に苦しんでいたアジアに希望を与えた一方、日本自身がこのあとヨーロッパ諸国と同じようにアジア諸国を植民地化していきました。そうした負の側面があったこともまた忘れてはならないでしょう。

高野山には、日露戦争以外でも様々な戦没者の慰霊碑や供養塔があります。もし高野山を旅行することになったら、歴史上の有名な武将だけではなく、それらにも目を向けてみてください。そして、かつて日露戦争で亡くなった日本とロシアの兵士たちに思いを馳せるのもいいかもしれません。

【参考文献】
細谷雄一「第3章日露戦争と近代国際社会」(『日本近現代史講義:成功と失敗の歴史に学ぶ』中央公論新社、2019年)。
松長有慶『高野山』岩波新書、2014年。

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