日本は災害大国です。夏は台風に、冬は大雪に見舞われ、地震は毎日のように起きています。時に地域を壊滅させる大地震も発生します。2011年3月に起きた「東日本大震災」では地震と津波でおよそ2万人が亡くなり、最近では2024年の元旦に「能登半島地震」が起き、一家団欒の中で多くの家族が犠牲になりました。
災害と隣り合わせの日本にいると、将来またどんな災害があるのか不安になってしまいますね。さて、ここで過去に遡ってみましょう。近代において、日本が初めて経験した大規模災害とは何かご存じでしょうか。それは、1888(明治21)年7月15日に発生した福島県の「磐梯山噴火」です。今回はこの磐梯山噴火について、実際の歴史資料を読みながら見ていきたいと思います。
近代日本における初めての大規模災害
福島県の磐梯山は、「会津富士」の別名をもつ美しい山です。磐梯山周辺は磐梯朝日国立公園として指定されており、磐梯山の南麓の表磐梯には日本の湖で4番目に大きい猪苗代湖が、北麓の裏磐梯には五色沼などの湖沼群を中心とする美しい自然が広がっています。日本人だけではなく、外国人にも人気の観光地です。
磐梯山は、裏磐梯から見ると山体がえぐれているように見えます。1888年7月15日、近代日本において初めて発生した大災害――磐梯山噴火によって山体崩壊した跡です。この日の午前7時45分、磐梯山が突然噴火しました。翌16日の午前11時40分には、福島県知事の折田平内から内務大臣の山縣有朋宛に被害の状況を伝える電報が届けられました。以下の資料はその電報の写しです。
「福島県下耶摩郡磐梯山噴火壊裂ノ状ヲ報ス」(公文類聚・第十二編・明治二十一年・第三十七巻・衛生・医事治療附~疾疫、警察・衙署~雑載/請求番号:類00372100)。出典:国立公文書館デジタルアーカイブ
…昨夜不取敢内申候処猶取調フルニ、崩壊ノ面積凡ソ二里四方、其災害凡ソ六里四方ニ及フナラン。人ノ埋没セシハ凡ソ四百人、内浴客百五十名、戸数ノ埋没セシハ三十六戸、死躰ヲ発見セシハ僅カ二名ノミ。又其飛散セシ土ハ赤土又ハ砂礫等ニテ、其飛散セシ土ハ檜原大川ノ水道ヲ塞キタリ為メニ、此土ヲ切リ流サザレハ檜原ハ沼ト為ルノ憂アルヲ以テ、目下村民等夫々財産ヲ取片附救助方尽力中、鳴動ハ今ニ止マス。右上申候也。
電報によれば、噴火発生後に取り急ぎ調査した限りでは、山体が大規模に崩壊し、住民や湯治客など約400人が埋もれ、家は36戸が埋もれてしまい、遺体も2名しか発見できなかったとあります。飛散した土砂は桧原川をせき止めてしまったので、このままでは桧原が沼になってしまう恐れがあることや、まだ住民がいて救助にあたっている中で、鳴動が今も止まないと緊迫した状況が書かれています。こうした状況は、同日のうちに山縣から総理大臣の黒田清隆に伝えられました。
「岩屑なだれ」の威力
磐梯山噴火の状況について、いちはやく現地調査に向かったのが帝国大学理科大学教授の関谷清景でした。これは、日本で最初に行われた災害に関する本格的な科学的研究でした。関谷清景と同学助教授の菊池安らは、7月31日から8月8日まで磐梯山で調査を行い、その報告書は同学に提出されました。報告書の内容は、政府の機関紙である『官報』で確認できます。そこには、磐梯山が噴火した時の状況や住民の証言などが詳しく書かれています。
関谷清景・菊池安「磐梯山破裂実況取調報告」(『官報』第1575号、1888年9月27日)。 出典: 国立国会図書館デジタルコレクション
…小磐梯山ノ地勢タルヤ、北ニ向ヒテ傾斜シ、一ノ遮塀スルモノナキカ故ニ、爆発ノ際土石ハ多ク長瀬渓谷ニ向ヒテ陥リ、直ニ北ヲ指シテ檜原地方ニ遡リ、秋元原、細野、雄子沢ノ部落ヲ埋没シ。又其一部ハ流下シテ川上温泉ヲ埋メ、夫ヨリ南ノ方二十八町ノ下ニ在ル蚕養村ノ内字樋ノ口ニ至リテ止リタリ。乃チ北方ニ崩壊セラレシ土石ハ、其量最モ多キヲ以テ、之ヲ本流トモ名クヘク…。
この報告書から分かるのは、水蒸気爆発によって起きたいわゆる「岩屑なだれ」の威力です。磐梯山を構成する峰の一つである小磐梯が北側に崩壊し、その土石が斜面を一気に流下したことで、北麓にあったいくつもの村や温泉が埋まり、多くの人が亡くなりました。死亡者数には諸説ありますが、500人いたとも言われています。
現在、小磐梯は消滅し、磐梯山の北側はえぐられて荒々しい痕跡を残しています。また、折田福島県知事からの電報で、土砂で川がせき止められて沼になる恐れがあると報告された桧原は、現在では広大な桧原湖となっています。その下に、今も村は沈んだままです。
磐梯山噴火から始まった救援救護活動
磐梯山噴火は、日本社会が大災害や大災害が発生したときの対応について再考する契機となりました。これまで政治報道が中心だった新聞各社は、未曽有の大惨事となった磐梯山噴火とその被災状況について熱心に報道すると共に、全国から災害義援金を募るなどして救援活動に尽力しました。また、皇室のバックアップを受けた赤十字社は被災地に医師を派遣し、地元の医師と共に救護活動を行いました。このような全国規模での救援救護活動は、この磐梯山噴火から本格的に始まったとされ、それは現在にまで至っています。
その他、明治時代は西洋諸国から先進的な技術を取り入れた時期でしたが、磐梯山噴火では新聞報道の中で写真版画が活用されてリアルな状況が国民に伝えられました。
磐梯山噴火とそれが日本社会に与えた様々な影響については、参考文献に挙げた米地文夫による研究に詳しくあります。
災害の歴史に学ぶ
以上、歴史資料をもとに磐梯山噴火の概要を見てきました。私たちは災害大国に住んでいるという事実をあらためて実感したのではないでしょうか。突然やってくる大災害に備えて、日頃から準備を整えておくことは不可欠ですが、時にその歴史にも目を向けてみて、どのような被害が出て、人びとはどのように対応したのかなど、歴史から教訓を学ぶことも大切でしょう。
【参考文献】
米地文夫『磐梯山爆発』古今書院、2006年。
磐梯山ジオパーク協議会/磐梯山ジオパーク(2024/3/27最終閲覧)
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