朝鮮に漂着したある武士の物語:『朝鮮漂流日記』

韓国ソウルにある世宗大王像(2013年筆者撮影)

「近くて遠い国韓国」と言われますが、日本と韓国は隣国でありながら国同士の関係は良好とは言えません。その原因はいくつもありますが、1910年より日本が韓国を併合したことや、さらに遡ると1592年より始まる豊臣秀吉による朝鮮への2度の侵略(文禄・慶長の役)があります。ソウルにある世宗大王像の地下の博物館「世宗物語・忠武公物語」には、豊臣秀吉の侵略について大々的に解説されており、何も知らずに訪れた韓国ファンの日本人には胸にこたえるものがあるかもしれません。

さて、現在の日韓関係をふまえると、『朝鮮漂流日記』という資料は、両国の関係性を見つめ直す契機になるのかもしれません。この史料は、1819年に航海の途中に遭難し、朝鮮に漂着した日本人の武士である安田義方による日記です。これには、安田たちの救護にあたった朝鮮王朝の官僚たちとの交流や、安田たちが日本に帰還するまでの出来事が書き留められています。

出典:安田義方著、高木元敦編『朝鮮漂流日記』(所蔵機関:神戸大学附属図書館所蔵/住田文庫)。出典:神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ

私は若いころから、文辞には不慣れてある。それでも、永良部島を出てから少しばかり漢字を学び、船中で紀行文を書き留めてきたのだから、考えてみると笑えてくる。その上漂流して異国の地に来てしまった。やむを得ず、異邦人と筆談することになったが、恥ずかしいことに(私が書いた)文章の多くは語順が逆になっていたので、文意が通じていなかったが、朝鮮人は私の言いたいことを察して、事情を汲んで理解してくれたと思う。すでに2日も経ち、日高と川上は病気で対応できないため、自分一人で考え判断して、大勢を相手に筆一本で格闘し何としてでも帰船するのだ。もし私の書いた言葉に誤りがあれば、それは私の罪である。

「余自少小、不慣文辞。雖然、自出永良部以来、於舟中聊倣漢字、謾録紀行、自顧堪捧腹矣。且漂到于此異域也。不得已、而与異邦人筆談、慚其文多顛倒、而不成語、韓人蓋察余意、量事情而解之也矣。既二日、而後日高川上、以病不接客、故臆裁特断、与群客筆闘強為帰舟之計矣。若有過於筆語、則余之罪也。」

上の資料にあるように、安田は思いがけず遭難して朝鮮にたどりつき、日本に帰国するには現地の人びとに助けてもらう必要がありました。近代以前の日本では中国の制度や文化を模範としていたことから、日本の知識人は中国の儒教の経典などを勉強して、漢文の素養を身に着けていました。それは、朝鮮でも同じでした。言わば漢文は、近代以前の東アジアの共通言語でした。

そこで安田は、朝鮮の官僚たちに対して、漢文の筆談によって自分たちが日本から漂着したことを説明し、日本に帰国するための援助をするよう交渉しました。その結果、安田は日本に帰国できただけではなく、漢文のやり取りを通して、尹永圭たち朝鮮の官僚たちと友人のように打ち解けるまでになりました。

東アジアにおける漢文の重要性、豊臣秀吉による侵略後の日本と朝鮮の関係、日本と朝鮮の風俗の違いなど、『朝鮮漂流日記』は近世東アジアを考える上で様々な視野を提供する非常に興味深い史料です。『朝鮮漂流日記』は漢文で書かれていますが、その内容を分かりやすくまとめた書籍も刊行されています。ネットにあふれる嫌韓情報ではなく、日本と韓国の生の歴史を知りたい方は、ぜひ一読することをお勧めします。

【参考文献】
池内敏『薩摩藩士朝鮮漂流日記―「鎖国」の向こうの日朝交渉―』講談社、2009年。

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