「近くて遠い国韓国」と言われますが、日本と韓国は隣国でありながら国同士の関係は良好とは言えません。その原因はいくつもありますが、1910年より日本が韓国を併合したことや、さらに遡ると1592年より始まる豊臣秀吉による朝鮮への2度の侵略(文禄・慶長の役)があります。
ソウルにある景福宮の正面の大通りには、ハングル創出など朝鮮独自の制度改革を行ったことで知られる世宗大王像と、豊臣秀吉の軍を撃退したことで知られる李舜臣像が立っています。その地下にある博物館「忠武公物語」には、豊臣秀吉の侵略と李舜臣の功績について大々的に解説されており、何も知らずに訪れた韓国ファンの日本人には胸にこたえるものがあるかもしれません。
さて、そのような日韓関係をふまえると、『朝鮮漂流日記』という資料が、両国の関係性を見つめ直す契機になるのかもしれません。この資料の著者である薩摩藩士の安田義方は、1817(文化14)年に沖永良部島の代官附役となった人物です。3年の任期を満了後、代官の日高義柄と同僚の川上親詇たちを含む25人で乗船し、薩摩に帰るところでした。ところが、1819(文政2)年6月、安田たちは航海の途中で思いがけず遭難し、朝鮮に漂着してしまったのです。
『朝鮮漂流日記』は、安田たちが遭難し日本(対馬)に帰還するまでの日々をつづった日記であり、朝鮮の文化や風俗、安田たちの送還に尽力した朝鮮の役人たちとの交流など、様々な出来事が書き留められています。その内容を少しのぞいてみましょう。
出典:安田義方著、高木元敦編『朝鮮漂流日記』(所蔵機関:神戸大学附属図書館所蔵/住田文庫)。出典:神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ
私は若いころから、文辞には不慣れてある。それでも、永良部を出てから少しばかり漢字を学び、船中で紀行文を書き留めてきたのだから、考えてみると笑えてくる。その上漂流して異国の地に来てしまった。やむを得ず異国の者と筆談することになったが、恥ずかしいことに(私が書いた)文章の多くは語順が逆になっていて文意が通じていなかったが、朝鮮人は私の言いたいことを察して、事情を汲んで理解してくれたと思う。すでに2日も経ち、その後日高と川上は病気になり対応できなくなったため、自分ひとりで考え決断を下し、大勢相手に筆一本で格闘し、何としてでも帰船するのだ。もし私の書いた言葉に誤りがあれば、それは私の罪である。
「余自少小、不慣文辞。雖然、自出永良部以来、於舟中聊倣漢字、謾録紀行、自顧堪捧腹矣。且漂到于此異域也。不得已而与異邦人筆談、慚其文多顛倒而不成語、韓人蓋察余意、量事情而解之也矣。既二日、而後日高川上、以病不接客、故臆裁特断、与群客筆闘、強為帰舟之計矣。若有過於筆語、則余之罪也。」
上の資料にあるように、安田たちが帰国するには朝鮮の人たちに助けてもらう必要がありました。幸いなことに、近代以前の日本では中国の制度や文化を模範としていたことから、日本人は漢字を使うことができたのはもちろん、安田のような武士階級であれば中国の典籍などを勉強して、漢文の素養を身に着けていたと考えられます。それは朝鮮でも同じであり、漢文は近代以前の東アジアの共通言語だったと言えます。
そこで、安田は朝鮮の人たちに対して、漢文の筆談によって自分たちが漂着したことを説明し、帰国するための援助をするよう交渉しました。その結果、安田たちは日本に帰国できただけではなく、漢文のやり取りを通して、尹永圭など朝鮮の役人たちと打ち解けるまでになりました。
東アジアにおける漢文の重要性、豊臣秀吉による侵略後の朝鮮人の日本観など、『朝鮮漂流日記』は前近代東アジアを考える上でも様々な視野を提供する非常に興味深い資料です。『朝鮮漂流日記』は漢文で書かれていますが、その内容を分かりやすくまとめた池内敏による書籍も刊行されています。ネットにあふれる嫌韓情報ではなく、日本と韓国の生の歴史を知りたい方は、ぜひ一読することをお勧めします。
【参考文献】
池内敏『薩摩藩士朝鮮漂流日記―「鎖国」の向こうの日朝交渉―』講談社、2009年。
文慶喆「筆談による日韓のコミュニケーション」『総合政策論集:東北文化学園大学総合政策学部紀要』17-1、 2018年、73~88頁。
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