ドイツ人捕虜の墓

静岡市沓谷にある陸軍墓地の入り口(2024年2月筆者撮影)

2024年4月5日、静岡駅からバスで10分ほど行った住宅街の中にある陸軍墓地で、第一次世界大戦時に捕虜(当時は俘虜〈ふりょ〉と呼ばれました)となったドイツ兵の墓の除幕式・献花式が行われました(静岡放送「ドイツ兵捕虜を弔い墓の除幕式と献花「歴史を知ってもらうことが大事」)。当時、ドイツ人捕虜たちが収容所のあった地域の人びとと交流をもち、西洋の技術と文化を伝えたことはよく知られており、このように現在も全国にある捕虜たちの墓では慰霊祭が行われています。今回は、ドイツ人捕虜について少し振り返ってみたいと思います。

第一次世界大戦とドイツ人捕虜

19世紀半ば、ヨーロッパ諸国がアジアを植民地化していくなかで、ドイツもまた1898(明治31)年に東アジアにおける海軍基地として中国(当時は清国)の膠州湾一帯を租借し、青島に要塞を築いていました。そして、1914(大正3)年7月に第一次世界大戦が勃発しました。オーストリア皇太子がセルビアの青年に暗殺されたことに端を発するヨーロッパ諸国間の戦争でしたが、この機に乗じて東アジアに勢力を拡大しようとした日本は、日英同盟を理由にイギリスの味方に付き、連合国の一員としてドイツに宣戦布告しました。

日本軍とドイツ軍の戦争は青島において行われ、戦闘は激烈であり、多くの兵士が戦死しました。10月、ドイツ軍からの提案で、日本軍とドイツ軍は一時停戦し、亡くなった兵士たちの埋葬を行いました。11月、ドイツが降伏し、日本は勝利したものの、日本軍もまた約1000人の死者を出しました。ドイツ軍も約300人の死者(病死者も含む)を出し、生き残った4700人は日本各地の俘虜収容所に送られることになりました。

俘虜収容所

俘虜収容所は、当初久留米をはじめ12か所設置されましたが、その後6か所(久留米、名古屋、習志野、青野原、似島、坂東)に統合されました。先の日露戦争に勝利し一等国になったと自負する日本は、国際法を遵守することに努め、捕虜の虐待を禁じるハーグ陸戦条約に従って捕虜たちを厚遇しました。ドイツ人捕虜たちは日本の将兵と同じ給与を支給され、仕事をすれば賃金も支払われました。また、日本国外にいる家族との手紙のやりとりも許されていました。

そして、ドイツ人捕虜たちの中には様々な技能を持つ民間人が含まれており、商人や教師、演奏家、パン屋、菓子屋、ソーセージ職人など多種多様でした。そのためドイツ人捕虜たちから地域の人びと、やがて日本全国に彼らの技術と文化が広まりました。例えば、現在よく年末に合唱されるベートーベンの「第九」はドイツ人捕虜から伝えられ、徳島の坂東収容所が本邦初演とされています。下の写真は、名古屋収容所のドイツ人捕虜たちの写真です。楽器をもっており、音楽活動を楽しんでいた様子が分かります。

俘虜情報局(編)『大正三四年戦役俘虜写真帖』1918年。出典:国立国会図書館デジタルコレクション

ドイツ人捕虜のための追悼会

「死亡俘虜関係」(所蔵機関:外務省外交史料館/請求番号: A.7.0.0.1-2-1)。出典:アジア歴史資料センター (Ref.B02032341300)。

さて、そんな名古屋収容所の様子が分かる資料を見てみましょう。上掲の資料は、日本の外務省が所蔵する公文書の一部です。それによると、1930(昭和5)年11月に愛知県名古屋市において、病死したドイツ人捕虜のための追悼会が開催されました。追悼会の主催者は、当時名古屋に住んでいた教師アルノルド・ハーン(愛知県立医学専門学校のドイツ語教師か※)でした。追悼会が開催された場所は名古屋市にある陸軍墓地です。ドイツ人の参会者は、大阪に駐在していたドイツ領事ハンスヴェルナーローデ(Hans Werner Rohde)と名古屋在住の17人のドイツ人でした。日本人の参会者は、陸軍の軍人たちと、クリーニング店の甲斐富三郎です。

クリーニング店の甲斐富三郎とは何者でしょうか? この文書には、甲斐は「捕虜たちの洗濯物一切を引き受けていた」と書かれています。防衛省防衛研究所に所蔵されている別の文書(「俘虜労役に関する件」(請求番号:陸軍省-欧受大日記-T6-14-44))によると、甲斐はドイツ人捕虜を雇用し、技術者のKnibbe Paul、Gass Josef、Lingner Augusutたちに洗濯機の製造の仕事をさせたとあります。

外務省と防衛省の文書から推測すると、甲斐は捕虜たちが製造した洗濯機を使って、捕虜たちの衣服の洗濯をしていたのかもしれません。文書には甲斐の心情は詳しく書かれていませんが、追悼会に名を連ねていることをみると、捕虜たちの死を悲しんでいたのでしょう。ドイツ人捕虜たちの墓は、現在も名古屋市の陸軍墓地に存在しています。

ドイツ人捕虜の研究

ドイツ人捕虜たちが、元々は日本軍と激しい戦闘を繰り返し多くの仲間を失った上に、見知らぬ土地に連れて来られた経緯を思えば、単なる美談で終わらせてはならないかもしれません。他方、ドイツ人捕虜たちの伝えた技術や文化が日本の発展に寄与し、現在まで続く日独交流の礎を築いたことも事実です。

ドイツ人捕虜については、瀬戸武彦による研究に詳しくあります。また、それ以外にも新しい研究成果が次々に発表されています。ciniiで「ドイツ」「青島」「俘虜」などのキーワードで検索すればヒットします。一部の論文は無料で読めます。ご興味のある方はぜひ検索してみてください。

※名古屋大学医学部創基百五十周年記念事業準備委員会編『名古屋大学医学部百五十年史』名古屋大学医学部、2021年。

【参考文献】
瀬戸武彦「青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(1)」『高知大学学術研究報告 人文科学編』44、1995年。
同上「青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(2)」『高知大学学術研究報告 人文科学編』48、1999年。
同上「青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(3)」『高知大学学術研究報告 人文科学編』49、2000年。
同上「青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(4)」『高知大学学術研究報告 人文科学編』50、2001年。
同上「青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(5)」『高知大学学術研究報告 人文科学編』52、2003年。
同上『青島から来た兵士たち:第一次大戦とドイツ兵俘虜の実像』同学社、2006年。
岩井正浩『第一次大戦と青野原ドイツ軍俘虜 : 収容所の日々と音楽活動』公人の友社、2022年。

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