
出典:イラストAC
康有為にとって邪魔だった畢永年
康有為(1858-1927)は逃亡後に政変の背景を外国人らに証言する中で、西太后(1835-1908)幽閉計画の存在には一切触れませんでした。1898年10月8日、日本への亡命を要請し、18日に日本政府より許可が下りると、19日に香港を発ち、25日に日本に到着します。
しかし、康有為の亡命と同時進行するかのように、10月7日には畢永年(1869-1902)の証言をまとめた「袁世凱のうら切」と題した記事が『九州日報』に掲載され、10月15~25日にかけて、畢永年が新聞社に持ち込んだ「譚嗣同の訣別書」が新聞各紙に掲載されます。西太后幽閉計画の存在、しかもそれが康有為の発案によること、さらに反対の声を押し切って計画を進めたことが知られるようになってきていました。
ただし、19日には同じく『九州日報』、31日には『読売新聞』に、康有為らが西太后の幽閉を計画していたとする説に懐疑的な記事が掲載されています。畢永年の証言は、必ずしも確信とともに受け入れられていたわけではありませんでした。
そうなると、康有為からすれば早いうちに畢永年を離日させるのが得策です。康有為は、中国で譚嗣同(1865-1898)らの死に憤慨した有志が武装蜂起を計画しているとデマを流します。畢永年はこの動きに呼応すべく、11月には日本を離れ、中国に向かったのでした。康有為は畢永年の帰国に乗じて、その殺害をも画策していたとも言われています。
畢永年の反撃
畢永年は友人の日本人とともに中国に帰国しました。しかし、武装蜂起の計画はデマですから、そのような動きは当然ありません。二人は騙されたことに気付いたでしょう。畢永年に同行した日本人は、『詭謀直紀(巧妙な計画を率直に記す)』と題した冊子を上海で日本の外交官に手渡しています。


「7 明治32年1月21日から1899〔明治32〕年5月23日」(所蔵機関:外務省外交史料館/請求番号:1.6.1.4-2-2)。出典:アジア歴史資料センター (Ref. B03050091300)。
その内容は、康有為が周囲の反対を押し切って西太后幽閉計画を推し進めた様子を、日記形式で生々しく記したものです(一部の訳文と内容は参考文献「譚嗣同」を参照してください)。
これはおそらく、畢永年の証言を基に、同行した日本人が記したものと考えられています。また、畢永年の証言の信憑性も確かなものとは言えません。もしかしたら、畢永年は直にこの計画に関わっていたのではなく、誰かしらから伝聞した話を証言していたのかもしれません。ただし、いずれにせよ『詭謀直紀』の提出が、康有為の日本追放を目的としていたことは確かです。
『九州日報』掲載記事「袁世凱のうら切」の基となった10月1日の証言、8日に日本の新聞社にもたらされた「譚嗣同の訣別書」、そしてこの『詭謀直紀』。畢永年が残したこの三種の情報に共通しているのは、西太后幽閉計画が康有為の発案によることと、周囲の反対を押し切って康有為がこの計画を推し進めたという点です。そして、康有為が最も知られたくなかったのはこの2点だったでしょう。
日本政府が得ていた正確な情報
自らの発案による西太后幽閉計画の存在が明らかになりつつある以上は、西太后は殺されて当然の人物なのだと知らしめたい思惑も康有為にはあったでしょう。日本に亡命後の康有為とその弟子は、西太后が改革を握り潰しただとか、西太后は元より光緒帝(1875-1908)を抑圧していただとか、要は現在の「西太后=悪女」のイメージの基となるような証言や文書を喧伝します。
しかし、西太后の治世を冷静に顧みたならば、漸進的ではありながらも近代化を推し進め、死に体だった清朝を数十年延命させたと評価することもできます。その数十年の期間がなければ、中国は自らの足で近代国家建設への道を歩むための礎すら築くことができないまま、列強の強い影響下に置かれていたかもしれません。
以上は、最新の研究成果に基づく見解ですが、当時日本政府にもたらされていた情報でも従来のイメージとは異なる西太后の姿が述べられています。日本政府が得ていた情報は、康有為らの言い分とは随分と異なるのです。
政変より約2年半後、西太后の指示により改めて改革が開始されます(清末新政)。その改革の中心的役割を担った官僚は、政変直後のこの時、日本の外交官の問い合わせに対し、康有為のこれまでの所業と、それに対する否定的な評価を詳細に述べるとともに、これらをまとめた文書を日本の新聞紙上に掲載するよう求めました。
そして、今後の展望として、「おそらく太后さま(西太后)の胸の内には一大改革が必要という考えがあり、いずれ必ず妥当な意見を採用して適宜改革に着手することに疑いはない」と、意見していました。


「5 湖広総督張之洞ノ近状并ニ其政変等ニ関スル意見報告 1/〔送付状〕」(所蔵機関:外務省外交史料館/請求番号: 1.6.1.4-2-2)。出典:アジア歴史資料センター (Ref. B03050090900)。
長い間、こうした史料は歴史研究者からも見過ごされてきました。西太后に近い存在であった政府内外の実力者の証言は、西太后に与する人間の詭弁として重要視されることはなく、それどころか虚偽の内容を述べたものとすらされてきたのです。結果、戊戌政変にまつわる「定説」「通説」、そして「西太后の評価」は、康有為ら改革派が国外逃亡後に語った内容を反映して形成されてきました。
康有為が形成した西太后像とそれを受容した後世
ちなみに、康有為は西太后に会ったことはありません。光緒帝に会ったのも一度きりです。決して改革を阻むことはしていなかった西太后を改革の弾圧者と考え、幽閉、場合によっては殺害しようと計画したことは、康有為が正確に政府や宮廷内の情勢を見極めることができていなかったことを何よりも示しています。
政変後に康有為が語った政府や宮廷の内幕話には、康有為にとって都合のいい話や、いわゆるゴシップに属するような話が多分に含まれています。それにもかかわらず、そんな話が真実のように世界中で受け入れられてきたのは、それを否定するだけの動機を持つ者が誰もいなかったからです。
清朝政府からすれば、言わば内紛である政変の詳細を公にするつもりなどありません。真実とは異なる風聞を流布する者の口を封じたくはあるでしょうが、それに反論する気はないのです。また、康有為ら亡命者が海外で好き勝手に何を言ったところで実害があるわけではない、というのも実際のところだったでしょう。なぜなら、そうした言説が政権を揺るがす恐れはないからです。康有為らが流した風説に、政権中枢に近い実力者が惑わされることはありません。
その風説を信じ込み、義憤に駆られて政府の打倒を心に誓うとすれば、政権中枢から距離がある内情を知らない者です。急進的な改革を叫ぶ在野の者たちがそれに該当します。しかし、彼らによる武装蜂起の動きが見られなかったこと、そもそも彼らが武力を持たないこと、つまり、少なくともこの時点において彼らが政府にとっての脅威ではないことは、ここまでの経過からも明らかです。また、国外に目を向けても、政変は露英日間の争いだなどという康有為の口車に乗って、外国政府が干渉してくる気配もありませんでした。清朝政府にとって、康有為の与太話を否定する必要性はなかったのです。
そして、日本を含む外国政府が得た情報が、康有為らの言い分とは違っていたとしても、自国の国益を損なわない限りわざわざそれを公表する理由もありません。
真実は如何なるものであったのか精査するのは歴史研究者の仕事であり、政府の仕事ではありません。ただし、歴史研究者がそれをできるのは時間が経ってからのことです。日本所蔵史料に限って言えば、本連載記事で紹介した外務省所蔵史料は、1954年に『日本外交文書(明治31年)』が公刊され、ようやくその一部を研究者が目にすることができるようになりました。『日本外交文書』に収録されなかった史料を、外務省外交史料館で資料請求して閲覧できるようになったのは1976年以降のことです。さらに、その史料群の中から「定説」「通説」とは異なる見解を導き出す史料が「発見」されるまでには数十年を要しました。
歴史認識の更新が起きる時
これは、康有為らが作り上げたシナリオに、中国内外の歴史研究者が長らく違和感や疑問を抱いてこなかったということなのかもしれません。その背景には、後の歴史研究者たちが生きてきた時代の価値観や空気とでもいうべきものも存在しています。
清朝はこの後、1912年に滅亡します。新たに成立した中華民国、その後成立する中華人民共和国、その時代を生きる中国の人々、そして歴史研究者が、中国の現在は過去より進歩していると考える限り、清朝末期の西太后の治世が「誤り」であり、「悪」であることには何の違和感もなかったのです。
西洋列強や日本においても同様です。自らの中国進出や侵略を正当化するならば、或いは自らの政治体制に疑問を抱かないならば、異なる政治体制である清朝が「野蛮」であり「遅れている」ことには何の違和感もなかったのです。そして、その「野蛮で遅れた中国」の象徴こそが西太后でした。
日本や西洋列強の「先進的」で「正しい」政治制度を採り入れようとする改革派が、頭の固い私利私欲にまみれた醜い老婆、西太后という稀代の悪女により迫害された。
この康有為らが触れ回ったシナリオは、後の中国、そして日本や欧米諸国、そこに存在する男性優位社会、いずれにおいても何の問題もなく、もしかしたら好都合ですらあるものでした。そして後の時代において、現体制や男性優位社会に疑いの目を向けない人々にとって、さらには歴史研究者にとっても、違和感なく自然に受け入れられるシナリオであったのかもしれません。
歴史上の定説や通説が改められるのは、新たな史料の発見により新事実が判明した時に限りません。社会の価値観が変化した時、現代社会の価値観や在り方に疑念が生じた時、それまで見過ごされてきた史料に光が当たる、或いはこれまでも利用されていた史料に対する解釈が変わるのです。
歴史研究の成果とは、単なる過去の事実の羅列ではなく、現代の価値観を反映したものでもあります。そして、現代社会はどうあるべきなのか、それを問いかけるものでもなくてはなりません。西太后に対する再評価は、その一例でもあるのです。
【参考文献】
・宮古文尋「康有為——名誉欲と権力欲にとりつかれた野心家」(上田信編『悪の歴史(東アジア編・下+南・東南アジア編)』清水書院、2018年)
・宮古文尋「西太后——変革を厭わなかった自由奔放な未亡人」同上
・宮古文尋「譚嗣同——悲劇的結末を招いた俠気と狂気」(上田信編『俠の歴史(東アジア編)』清水書院、2020年)
Coment